2010年12月22日水曜日

観音寺境内にある大日如来






享保四年(1719年)五月十五日、上坂氏一門の霊を弔う為に建立された大日如来像は、廃仏毀釈後、大楠の傍(旧十王堂跡地)から、現在の場所へ移転された。
元来、十王堂跡地は、古くから、当地の武士団の墓所が設えられていた場所である。
合掌。

2010年10月21日木曜日

合田學著 「生駒家家臣団覚書 母衣組」

十人の高禄(600~2000石)の侍によって編成された組。家中騒動に際しては、八人の侍が生駒家を去った。(残留したのは、三野・多賀の二人のみ。)
高松城下での屋敷の割当は、郭内五人、西浜四人、その他一人。
組総知行高は9420石。
この組では、三野孫之丞のみが、700石の新田開発を行ったが、この数値は、特筆に値する。
三野孫之丞は、三野四郎左衛門の嫡子。高2000石。
上坂丹波は、上坂勘解由の嫡子。高1000石。
多賀源介の室は、生駒將監と山里の間に生まれた女子。高1000石。

合田學著 「生駒家家臣団覚書 寄合組」 

「寄合組」を「組はずれ」と記す写本侍帳も存在する。
非常時に、生駒河内、前田刑部、入谷助之進の指揮の下、諸士の子弟にて、大番組を編成する。
生駒河内の母は、二代一正公の娘、山里。
前田刑部の出自は定かでないが、寛永10年の人事関係を記した生駒高俊発給文書に扶持方80人扶持との記載がある。
入谷助之進は、生駒氏親族、入谷氏の総領。父は外記。一族の知行は3995石、内、395石は自分開の新田である。
1000石以上の士で自分開の新田を持つものは、生駒河内、入谷助之進、三野孫之丞の三人のみ。

追悼 生駒甚介(生駒甚助)正信公









四国八十八箇所札所、大窪寺傍の多和菅谷に、生駒甚介(生駒甚助)正信公を祀った小祠がある。著者は、何度もお参りに訪れたが、今日も公に逢い見えることが適った。非命に倒れた公のことは、常に我が脳裏にある。写真と地図を添え、此処に、公の顕彰を行いたく思う。
合掌。

合田學著 「生駒家家臣団覚書 侍帳の見方について」

嘗て、生駒家家臣の末裔の家では、必ずと言って良いほど、父祖に関わる言い伝えが残っていた。然し、旧来の研究者たちは、生駒家分限帳(生駒家家臣分限ノ記、生駒家組分侍帳、生駒家給人帳等々)に氏名の記載が無い場合、その伝聞を取り上げないことが多かった。為に、数多くの貴重な伝承が失われてしまった。残念なことである。
この間の生駒藩政史料公開作業の中で、そうした伝承が伝える侍名を多数確認した。一例として 、加藤氏のケ-スを紹介する。既刊の侍帳では、加藤二郎右衛門(三百石)としか記されていなかった為、城下絵図に、加藤五左衛門と、大身の侍たちの屋敷区画(高松城内堀端)に名が記載されているにも拘らず、史家は、加藤五左衛門を考察の対象外とした。ところが、讃州御国中村切高惣帳の明地高で算出すると、彼は、少なくとも千三百三十七石以上の侍として存在していたことが確認される。
亦、侍帳には、当然、生駒家直臣の名前しか記載されていないことを銘記すべきである。例え、高録を食んでいても、陪臣であれば、その名は記載されない。そして、その例は多数ある。
今ひとつ、鷹匠衆についても、諸大兄の注意を喚起しておきたい。古来、鷹狩りは、軍事演習であり、兵用地誌作成の為のものであった。その鷹匠衆に、香川、香西の名があるといえば、諸兄は何とお考えか。この辺りから、今一度、生駒家の讃岐武士に対する処遇を考えてみようではないか。

参考
合田學著 「生駒時代高松城侍屋敷図(郭内篇)」http://kousakashikenshoukai.blogspot.com/2010/05/blog-post.html

2010年10月9日土曜日

合田學著 「生駒家家臣団覚書 大番組」  

生駒隼人組  
 四代藩主壱岐守高俊の弟、生駒隼人(通称:西ノ丸殿)が預かる。与力は、安藤蔵人(1000石)が勤める。侍数、26人。
 旗下侍25人の平均知行高は、253石。
 屋敷の割当は、郭内屋敷四軒、西浜屋敷十軒。
 組内に安藤氏を名乗る侍が五名おり、家中騒動の際、その全てが生駒家を立ち退いた。
 生駒隼人の知行4609石の内4588石が寒川郡に集中している。
 嘗て、生駒甚介(三代讃岐守正俊弟、左門の異母兄弟)が、引田城主として、東讃岐を分知していた。甚助は、大坂の陣の際、豊臣方に加勢、敗戦後、引田に戻ったが、追っ手が迫り切腹、所領は没収された。隼人は その後を襲ったのであろうか。


生駒左門組
 三代藩主讃岐守正俊の弟、生駒左門が預かる。与力は、森次兵衛(500石)が勤める。侍数、25人。
 旗下侍24人の平均知行高は、272石。
 屋敷の割当は、郭内屋敷八軒、西浜屋敷八軒。
 左門の母は、金毘羅(松尾寺)と関わりが深い山下氏の娘、於夏である。二代一正と山下氏の縁で、生駒氏は、讃岐の国人領主層出身の家臣団との絆を強める。
 亦、金毘羅(松尾寺)への支援も、山下氏の仲介で本格化し、後の朱印地330石の基礎が固まる。
 左門の同腹妹山里が猪熊氏に嫁いで生んだ男子は、生駒河内と称し、寄合組に属して、高禄(3111石)を食む。山里は、後に、生駒氏一門衆の生駒將監(5071石)の室となり、女子(多賀源介室)を生む。こうして、生駒氏一門衆の中に、山下氏の人脈(閨閥)が出来上がる。(拙著『生駒家給人帳、知行帳』所収生駒系図参照)
 左門には異母兄弟として生駒甚介がいた。甚介は東讃岐を分知し、高禄を食んでいたが、大坂の陣に参加、敗軍の責を被り自刃した。この後、左門は、生駒氏一門衆筆頭となる。
 この組には、生駒氏の血縁入谷氏が三人加わっている他、讃岐出身の三野氏も四人、名を連ねている。亦、山下権内(150石)の名があることも追記しておく。この人は、三野郡の財田西村に自分開の知行所を持っている。豊田郡中田井村の香川氏とも関係が深い。
 他に、この組の重要な特徴として、自分開の新田1144石を挙げることが出来る。


生駒將監組
 生駒家改易の因を作った生駒帯刀の父、將監が預かる組。与力は、野田長兵衞(400石)が勤める。侍数、21人。
 旗下侍20人の平均知行高は、255石。
 屋敷の割当は、郭内屋敷六軒、西浜屋敷四軒。
 將監、帯刀父子は、一門衆筆頭の左門を差し置き、常に国政に関与した。(この家は、初代、親正の兄弟が創始したとのこと。)その為か、譜代の家老連との確執が耐えなかった。亦、その生活に於ても、家臣としての分を忘れ、宗家(生駒本家)を倣い、子の帯刀に至っては、その妻に大名家の姫を望んだ。この幕法をも無視した非常識極まる要求に反対した江戸家老、前野助左衛門、石崎若狭の両名は、この後、將監、帯刀父子に深く恨まれる。これを端に生じた両者間の抗争は、後の生駒家改易の因ともなったのである。
 この組は、多くの讃岐武士を含んでいる。例えば、尾池氏、河田氏、佐藤氏、吉田氏、加藤氏、大山氏、今瀧氏等。その為か、家中騒動では、石崎若狭組と対をなすかのように、その進退を鮮明に打ち出している。立退者がいないのが、この組の特徴である。
 佐藤久兵衞は、生駒將監の子。
 
 
森出雲組
 生駒氏一門衆を除き、家臣筆頭の知行(3948石)を誇る森出雲が預かる組。与力は、生駒氏の縁者、大塚采女(500石)が勤める。侍数21人。
 旗下侍20人の平均知行高は、267石。
 屋敷の割当は、郭内屋敷六軒、西浜屋敷七軒。
 森氏は生駒家譜代筆頭の家老であるが、生駒氏一門衆の家老、生駒將監、帯刀父子と対立し、生駒家を立ち退いた。出雲の父は出羽。妻は前野助左衛門(伊豆)の娘。よって、出雲は、前野次太夫とは義兄弟になる(阿波藩士、前野氏系図参照)。
 この組には、讃岐守護代、香川氏の筆頭家老を勤めた河田氏の嫡流である河田八郎左衛門がいる。尚、八郎左衛門は、家中騒動に際して、生駒家を立ち退いた。他にも、高屋、林田、福家氏等、いま一人の讃岐守護代香西氏の家臣たちが含まれている。所属の家臣団は、生駒氏一門衆旗下の大番組と違い、同一氏族に集中していない。


上坂勘解由組
 西讃岐の豊田郡にて2170石の一括知行を行う上坂勘解由の預かる組。その知行形態は、生駒家中に於いて、類例を見ない稀有なものである。与力は、村田喜右衛門(361石)が勤める。侍数、26人。
 屋敷の割当は、郭内屋敷六軒、西浜屋敷十二軒。
 旗下侍25人の平均知行高は、252石。
 勘解由は、寛永四年には、三野四郎左衛門と並び、5000石を給されていた。
 上坂氏の母国近江は、織豊政権下で数多くの武将を生んだことで有名である。生駒家家臣団中にも、石崎氏、田中氏等、同郷の侍が多数いる。
 勘解由は、遠く息長(おきなが)氏の系譜を引く湖北の名門、上坂氏一族の出身である。氏の持城の一つであった今浜城は、後に、秀吉が長浜城と改名、居城とした。
 家中騒動に際しては、朋輩の石崎、前野の両家老を庇い、譜代筆頭の家老、森出雲と共に生駒家を立ち退いた。上坂氏の娘は、前野次太夫の室である。
 上坂氏一門は、西讃岐の観音寺では、太閤与力の侍として知られている。隣国阿波の蜂須賀家同様、生駒家も、秀吉公から与力侍を付されていたのであった。居城は観音寺殿町の高丸城(観音寺古絵図、教西物語、阿波大西系図等参照)。墓所は観音寺琴弾公園内にある(観音寺十王堂跡地、現琴弾八幡宮境内)。
 この組は侍数26名を数え、生駒隼人組と共に最大の侍数を誇る。亦、拝領の家中屋敷も十八軒を持つ。
 家臣団構成は、森出雲組同様、特定の氏族に集中していない。

 観音寺古図

観音寺古図


石崎若狭組
 江戸家老を勤めた石崎若狭が預かる組。与力は下石権左衛門(500石)である。侍数19人。
 旗下侍18人の平均知行高は278石で、大番組中、最も高い。
 屋敷の割当は、郭内屋敷八軒、西浜屋敷七軒。
 この組では、家中騒動の際、その殆どの侍が、組頭で家老の石崎若狭と行を共にした。
 中村氏が三人、田中氏が二人いる。
 石崎若狭は、寛永四年には既に2500石を給されており、当時1000石の前野伊豆(助左衛門)とは、家中での立場を若干異にしていたようである。屋敷は、大手左の堀端にある。
 元和六年に断絶した田中吉政の家中からは、随分と沢山の侍が生駒家に移ったとのことである。若狭もその一人であろうか。


前野助左衛門組
 石崎若狭と共に江戸家老を勤めた前野助左衛門が率いる組。与力は、四宮三郎右衛門(350石)である。侍数は20人。
 屋敷の割当は、郭内屋敷四軒、西浜屋敷六軒。
 旗下侍19人の平均知行高は、272石。
 前野の男子の内、一人は、阿波蜂須賀家に仕える。
 生駒記等の講談物の域を出ない書冊に於ては、前野助左衛門、石崎若狭両名は、悪役を振り当てられている。だが実際のところは如何であろう。例えば、大番組を預かる高禄の侍は九人いるが、その内、前野唯一人が分散知行に徹している。そこに彼が目差した地方知行制から切米知行制への萌芽を見るのは早計だろうか。
 前野の妹は、生駒家奉行、小野木十左衛門の室。生駒記では小野木は足軽出身とのことであるが、決してそうではない。彼も亦、前野と同様、豊臣政権下で重責を担った一族の出である。因に、前野の母は、織田家中で勇猛を馳せた佐々成政の妹である。


浅田図書組
 知行2500石を有する浅田図書が率いる組。与力は、疋田左馬之助(700石)。侍数は24人である。
 屋敷の割当は、郭内屋敷六軒、西浜屋敷十軒。
 旗下侍23人の平均知行高は、246石。
 奉行を勤めた浅田右京が失脚した為か、図書は家中の枢要な地位を占めていない。
 
 
宮部右馬之丞組
 知行1998石を有する宮部右馬之丞が率いる組。与力は、佐橋四郎右衛門(400石)。侍数は14人である。
 屋敷の割当は、郭内屋敷三軒、西浜屋敷六軒。
 旗下侍13人の平均知行高は、232石。
 大番組中、最も小さな組。
 寛永四年の侍帳に、宮部木工2000石とあるが、右馬之丞の縁者であろうか。

上坂眞信著 「生駒騒動」

以下の拙文は、「史料生駒家家臣団の解体(上坂氏顕彰会史料出版部1999年第二版刊)」より、抽出したものである。
執筆にあたっては、Canonのワープロソフトを使用した。為に、本ブログにアップロードする際、原文のレイアウトが崩れてしまった。大方のご了解を乞う。


生駒家家臣団ノ解体 はじめに

天正十五年より寛永十七年に至る(1587-1640年)五十四年間、讃岐の国主を勤めた生駒家は、家中の不始末により改易。第四代当主、生駒高俊は、僅か一万石の堪忍料にて出羽矢島へ転封となった。
この事件(家中侍出入ノ一件)については、生駒記を始めとする諸書(江戸中期以降に成立)に触れられているが、お決まりの御家騒動物の域を脱していない。然るに、幕府の公式記録として著名な徳川実記によれば、幕閣(老中)は、諸書に引用されている生駒帯刀の訴状に、何らの信憑性を見出していないのである。(問題にしていないといった方が正確かもしれない。)数多くの切腹者まで出した処分は、飽く迄、徒党の禁を侵したことにあるというのである(家臣団の半数にも及ぶ侍たちの讃岐立退が、幕府に於て問題とされたのである)。
ここで、生駒家家臣団の先退として知られる侍たちの讃岐立退について考えてみたい。その数、士分の者二百、その家内眷族を併せ二千、亦、属する手代同心足軽千、妻子眷族に至っては三、四千とも伝えられる家臣団の退出が、白昼堂々、讃岐の全ての地より行われた。石崎若狭、前野伊豆を始めとする生駒家政府中枢と生駒家一門の生駒帯刀の間に起こった争いについて、幕府が調停中にである。このことが何を意味するのか定かではないが、結果的には、裁定の決着以前に行われた立退を唯一の処分理由として、生駒家は改易、数多くの家臣団が厳罰に処せられたのである。幕閣の裁きは、いつか騒動の本題を離れ、徒党を組んだこと(大規模な家臣団の讃岐立退)に対して行われたのである。幕府による有無を言わさぬ外様潰しと言えばそれまでだが、幕閣に付け入る隙を与えた斯様な立退が何故行われたのか、詳細に検討する必要がある。
本稿の試みは、家臣団の半数が生駒家に見切りをつけ自ら退出した真意を探る作業である。著者は決して結論を急がない。思考の端緒を掴み取りたいだけである。非命に倒れた数多の人々の冥福を祈る為に。
収録した史料は、幕閣による家中騒動裁定中に起こった生駒家家臣団による大規模な讃岐退出について、その陣容を記したものである。左に退出した侍。右に止まった侍、或は態度を明確にしなかった侍を記録した。
以下、作業の中で気付いた点を幾つか掲げ、本稿の解題とする。
① 大身の侍を中心に立退が行われた。例えば、地方知行を給された家臣の内、五百石を越える侍については、半数を越える者が讃岐を立ち退いている。
② 侍は給知権のみ、土地所有権は百姓に属するものとした豊臣政権以降の近世讃岐に於て、国主若しくは百姓以外に、讃岐阿波出身の家臣たちが中心となって広大な新田を開いた。この自分開の新田は、後に加増の対象となったようである。
③ 知行に新田(自分開)を含む侍は、その殆どが、騒動の折、讃岐に止まっている。
④ 三野氏、尾池氏の知行に占める新田の割合が突出している。従属関係が消滅した旧領地内の百姓を使っての新田開発は不可能な筈だが、如何様にして、かくも大規模な自分開を行ったのであろうか。自らのあらし子(侍の手作り地で働く農業労働者。所替に際して、侍は、あらし子の引率を命じられた。)のみを使って、これほどの開発が出来るとは思われないのだが。
⑤ 生駒氏の讃岐入府時登用された西讃岐の侍の内で勢力の変動が起こったようである。香川氏の分家、河田氏の勢力が衰退し、三野氏が興隆した。
⑥ 二代国主一正の側室、於夏(山下氏)の生んだ子供(生駒左門。他に猪熊氏に嫁いで河内を生み、後、生駒將監の後妻となった娘、山里がいる)や孫(生駒河内)が家老や家老並となった為、山下氏や同氏に繋がる讃岐出身の家臣団の勢力が増した。生駒氏の閨閥を考慮しなくてはならない。生駒帯刀の言動には、三野氏を始めとする讃岐国人領主層の影響を垣間見ることが出来る。(再度の讃岐国人領主層の台頭は、太閤検地、刀狩以降、明確にされた筈の領有権、領知権の区別を不明瞭なものにさせはしなかっただろうか。仮に、百姓層が、再度、中世的な作人になるならば、豊臣政権の志した改革への逆行で、耕作者の安寧には繋がらないのだが。)
⑦ ここに一つの問題がある。生駒氏は、秀吉の直臣であり、最もその心を理解していたのではないかということ。答えてみよう。創業者(初代、二代)に於ては然り。ただ、肥大化した大名家では、宗家が中、下級の家臣として、嘗て倒した領知先の国人領主層(正確には元の国人領主層)を家臣団に多数迎え入れると同様、分不相応の家禄を得た一門衆に於ても、譜代家臣欠如の為、多くの国人を家臣(宗家に対しては陪臣)に抱える。(これは土地政策に関し異なった理念の持ち主を家中に迎えることでもある。)宗家の創業者の逝った後、政府を担う吏僚たち(創業者と共に経営を行った上級家臣団及びその末裔)と一門衆の対立が、国人層出身の家臣団を交え開始される。
⑧ 太閤検地、刀狩の意義を、今一度、確認したい。立退の侍たちは、その真意を最も解していたように思われるのだが。
以上、感懐として書き留めた。
生駒家家臣団の解体は、生駒家改易前より始まった。この解体が何を意味するか、その問を今から始めたい。
平成十年 五月二十二日 著者 記



[補記-試論] 家中侍出入ノ一件

以下、家中侍出入ノ一件(家中騒動)に関する試論を付す。
家中侍の出入の際、多数の家臣が生駒家を立ち退いたことが知られている。これら家臣と残留した家臣、或は態度を明確にしなかった家臣について、その差異を明らかにし、それより抗争の因を探ることは、遠回しではあるが、真実へ近づく一方途であろう。
まず作業の手始めとして、今日まで多数の写本が伝わる生駒家侍帳(分限帳)を繙くことにしよう。これら分限帳には、全ての家臣団(生駒宗家の直臣)の氏名が、その役職、知行高と共に記されている。亦、幾つかの写本中には、知行高を記した数値の横に、小さな文字で知行内に含まれる自分開の新田に関する注記が施されている。本稿では、ここに焦点を置き、家中侍出入ノ一件について考察を試みる。
筆者は、生駒家奉行職の遺した優れた地方知行文書である『讃州御国中村切高惣帳』を整理検討する中で、侍帳に記された新田に関する記述がここにもあることに気が付いた。そこで両書を詳細につき合わせてみた所、それらの数値は、大旨一致することが分かった。これにヒントを得た筆者は、自分開の新田を持つ生駒家給人たちのリストを作成した。その結果、ある事実に思い当たったのである。自分開の新田を持った多くの讃岐や阿波出身の給人が家中騒動の際に残留したことに。(例外として、高屋少右衛門、河田八郎左衛門のような讃岐出身の侍もいるが。)換言すれば、生駒家を去った給人の殆どは他国の出身で自分開を行わなかった事実に。(自分開を行わないで生駒家を去った国人出身の侍には、高井半十郎がいる。)
このことは、如何に解すれば良いのであろうか。
生駒氏は、讃岐入府に際して、その支配の円滑を期す為、香川氏、香西氏の給人を多数抱えた。佐藤氏、河田氏、三野氏は、その代表的存在である。ここでは、三野氏を取り上げ、考察を進めることとする。
確かに、三野氏は、讃岐の国人領主層の出身であり、香川氏の下、多数の作人を支配していたに違いない。然し、秀吉の登場によって、時代は一変した。日本の侍層は、その支配を根底から覆されたのである。太閤検地、刀狩以降、日本の土地制度は、領有制から領知制に変わった。侍は、その所領の百姓と切り離され、その土地の所有権は耕作する百姓の手に移った。これ以降、侍は自らのあらし子(侍の手作り地で働く農業労働者)のように、百姓を自由に使うことは出来なくなった。侍が百姓層を使って、自由に新田開発を行うことなど、法制度上、あり得ないのである。然るに、孫之丞は、700石もの自分開を行っている。三野氏は他 にも一族の侍が624石の新田を持っている。この広大な新田は、どのようにして誕生したのであろうか。讃岐では、豊臣政権以降の土地制度改革が徹底していなかったのだろうか。それでは、讃岐国人層出身の侍による新田開発は自由である。一方、他国より所領の百姓と切り離され移り住んだ侍たちには、自分開など到底不可能である。(引率した自らのあらし子を使って、若干の土地を開くことは可能だったかもしれないが。)生駒家政府は、侍による自分開とは別に、政府主導、百姓層による新田開発も進めており、それは新田悪所改分として地方知行文書に記されている。
生駒家では、寛永期に入って、前野、石崎両家老の指導により、抜本的な政治改革が行われ、入府当時採用された讃岐出身の奉行層(三野氏、尾池氏等)が多数更迭され、他国出身者に代えられた。地侍出身者のみによる新田開発、お手盛りの加増では、百姓層との関係を持たない他国出身の侍にとっては、片手落ちの行政である。亦、侍による自分開は、生駒家の蔵入り増には繋がらず、幕命による土木事業や江戸屋敷の経営等で苦しい生駒家の財政を救うことにはならないので、生駒宗家にとっても不都合なのである。
この明確な変革(日本に於ける上よりの革命)を充分認識し得た前野と石崎は、生駒家政府管掌の事業として、百姓層を主体に新田開発(知行文書で新田悪所改分と記され、百姓層の所有に帰したもの)を行った。然るに、多くの讃岐出身の侍(嘗ての国人領主)や生駒氏一門衆(山下氏を介し、生駒氏一門衆は深く讃岐の地侍と結び付いた。生駒氏の閨閥を考慮する必要がある。)は、豊臣政権以降の変革を理解することなく、己が知行所の百姓を使って自分開を行った。従って、双方の新田開発は、同じ開墾でも、内容を全く異にするものとなった。前野、石崎を始めとする生駒家政府の企図は、百姓を主体とし、その権限を強めるもの。三野氏や一部の侍たちの企図は、侍が嘗てのように領主となり、百姓層を再度中世の作人とするものであった。
半数に及ぶ生駒家家臣団の立退は、その政策を入れられなかった生駒家吏僚たちが、四代当主壱岐守高俊と生駒氏一門衆に見切りをつけたことを物語っている。それにしても、幕府の裁定を待つことが出来なかったのであろうか。これは、結果だが、生駒帯刀の訴状を幕閣は何一つ取り上げなかったのである。幕府はその真意を理解していた。ただ生駒家が外様である為、その隙に付け入ったのである。立退が徒党の禁に触れるという只そのことだけで、余りにも多くの侍たちが死んでいった。前野、石崎両氏を始めとする人々を顕彰したく思った所以である。
再度の国人領主化を目差した讃岐の地侍たちも、その夢を果たすことなく、時代を見抜けなかった故に、余りにも多くの人々を巻き添えにして、讃岐の歴史から去っていった。讃岐武士の終焉である。
今は敵も味方もない。
(こうさかまさのぶ、上坂氏顕彰会)


付記
本稿の執筆にあたっては、双川喜文氏著『天正の土地改革』を随時参照させていただいた。
優れた論稿を記された双川氏に、心からの敬意を表したい。



参考グラフ

合田學著「讃州郡志集成」に収録された家中騒動関係のグラフを引用する。

『先退、残留諸士の各郡に於ける総給知高』
山田郡、南條郡、宇足郡、多度郡、三野郡等で、両者の高が拮抗しているのが分かる。このことからも、家 中騒動が非常に大規模なものであったことが理解出来るであろう。

『地方知行の侍に見る家中騒動に於ける進退』
『地方知行の侍に見る家中騒動における進退2』
『軍役衆各組に於ける先退、残留諸士の知行高』
『非軍役衆各組に於ける先退、残留諸士の知行高』
世に言う「生駒家家臣出入ノ一件」を分析したグラフである。五百石以上の上士層では、半数以上の給人が 生駒家に見切りをつけ、立ち退いたことが分かる。石崎若狭組の結束が目を引く。








参考

家中騒動の後、仇討ちが行われた事実を付言しておく。
合掌。

天晴れ、飯尾彦之丞兼晴の武者ぶり。生駒騒動・後日談。
http://kanonji.blogspot.jp/2015/11/blog-post.html

天晴れ、飯尾彦之丞兼晴の武者ぶり。生駒騒動・後日談。 その二
http://kanonji.blogspot.jp/2015/11/blog-post_16.html

2010年5月27日木曜日

合田學著 「生駒時代高松城侍屋敷図(郭内篇)」


本図は、拙宅に伝えられた城下屋敷に関する文書から作成したものである。作図は、1990年5月11日に終了、上坂氏研究史料集成中の「生駒家騒動」に収録された。他意は無い。「生駒家時代讃岐高松城屋敷割図」に見られる数多の記述ミスを修正したかったからである。
合掌。

補遺
今夜、何故か、尾崎氏の史料を再確認したくなった。そして、己が大きな過ちに気が付いた。過日作成した城下絵図の尾崎内蔵之助と記すべき屋敷地に、尾池内蔵之助と記していたのである。何とも申し訳がない。尾崎氏一族に心からのお詫びを申し述べる次第である。
図上で、以下のように修正した。
https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiVWalykCHTpzpXCKTwFgzt4ldRWC-IdcAoeTFfk4TSl38uhs2q7JHSchtBAaYFk71F2QvzsVx2W4xjy9HqFYf8mmGTSR1MZRg1LitF1EG7_ITSvNKtvIVR3Mt3RwNAnS89nSDELz_80JKf/s1600/20160928_1627555009.JPG
尾池内蔵之助 ⇒ 尾崎内蔵之助
合掌。