2013年11月6日水曜日

生駒氏に依る肥後検地

仙石氏と尾藤氏が讃岐入府と同時に九州への出兵を余儀なくされたことは、一般に知られていることである。実は、その後、讃岐国主となった生駒氏も、例外では無かった。国人一揆の為、佐々成政(さっさなりまさ)が除封された肥後の検地に出向いたのである。このことは、成恒(なりつね)文書を通して伝えられてきた。それにしても、打ち続いた戦乱の後での立て続けの出兵である。当時の讃岐の疲弊は、如何ばかりであったろう。先人たちの苦労を思うものである。
以下、中津古文書所収「成恒文書」、肥後文献叢書所収「新撰事蹟通考」「拾集昔語」から、当該箇所を抽出、参考史料としてアップロードする。
合掌。


中津古文書所収「成恒文書」





肥後文献叢書所収「新撰事蹟通考」




肥後文献叢書所収「拾集昔語」

2013年11月5日火曜日

文禄期伏見城下の生駒藩邸




上記三葉の城下屋敷図は、吉田東伍編「大日本読史地図(富山房1935年刊)」に収録された文禄頃の伏見桃山図(第四十三図)より、讃岐生駒藩の藩邸を中心にトリミングしたものである。生駒讃岐、長宗我部土佐守等の名を垣間見ることが出来る。
合掌。

寛永期江戸城下の生駒藩邸



上記ニ葉の城下屋敷図は、吉田東伍編「大日本読史地図(富山房1935年刊)」に収録された寛永年間江戸荘図(第四十六図)より、讃岐生駒藩の藩邸を中心にトリミングしたものである。
合掌。


補遺
慶長期の江戸図では、生駒讃岐と記されいる。
合掌。