四代藩主壱岐守高俊の弟、生駒隼人(通称:西ノ丸殿)が預かる。与力は、安藤蔵人(1000石)が勤める。侍数、26人。
旗下侍25人の平均知行高は、253石。
屋敷の割当は、郭内屋敷四軒、西浜屋敷十軒。
組内に安藤氏を名乗る侍が五名おり、家中騒動の際、その全てが生駒家を立ち退いた。
生駒隼人の知行4609石の内4588石が寒川郡に集中している。
嘗て、生駒甚介(三代讃岐守正俊弟、左門の異母兄弟)が、引田城主として、東讃岐を分知していた。甚助は、大坂の陣の際、豊臣方に加勢、敗戦後、引田に戻ったが、追っ手が迫り切腹、所領は没収された。隼人は その後を襲ったのであろうか。
生駒左門組
三代藩主讃岐守正俊の弟、生駒左門が預かる。与力は、森次兵衛(500石)が勤める。侍数、25人。
旗下侍24人の平均知行高は、272石。
屋敷の割当は、郭内屋敷八軒、西浜屋敷八軒。
左門の母は、金毘羅(松尾寺)と関わりが深い山下氏の娘、於夏である。二代一正と山下氏の縁で、生駒氏は、讃岐の国人領主層出身の家臣団との絆を強める。
亦、金毘羅(松尾寺)への支援も、山下氏の仲介で本格化し、後の朱印地330石の基礎が固まる。
左門の同腹妹山里が猪熊氏に嫁いで生んだ男子は、生駒河内と称し、寄合組に属して、高禄(3111石)を食む。山里は、後に、生駒氏一門衆の生駒將監(5071石)の室となり、女子(多賀源介室)を生む。こうして、生駒氏一門衆の中に、山下氏の人脈(閨閥)が出来上がる。(拙著『生駒家給人帳、知行帳』所収生駒系図参照)
左門には異母兄弟として生駒甚介がいた。甚介は東讃岐を分知し、高禄を食んでいたが、大坂の陣に参加、敗軍の責を被り自刃した。この後、左門は、生駒氏一門衆筆頭となる。
この組には、生駒氏の血縁入谷氏が三人加わっている他、讃岐出身の三野氏も四人、名を連ねている。亦、山下権内(150石)の名があることも追記しておく。この人は、三野郡の財田西村に自分開の知行所を持っている。豊田郡中田井村の香川氏とも関係が深い。
他に、この組の重要な特徴として、自分開の新田1144石を挙げることが出来る。
生駒將監組
生駒家改易の因を作った生駒帯刀の父、將監が預かる組。与力は、野田長兵衞(400石)が勤める。侍数、21人。
旗下侍20人の平均知行高は、255石。
屋敷の割当は、郭内屋敷六軒、西浜屋敷四軒。
將監、帯刀父子は、一門衆筆頭の左門を差し置き、常に国政に関与した。(この家は、初代、親正の兄弟が創始したとのこと。)その為か、譜代の家老連との確執が耐えなかった。亦、その生活に於ても、家臣としての分を忘れ、宗家(生駒本家)を倣い、子の帯刀に至っては、その妻に大名家の姫を望んだ。この幕法をも無視した非常識極まる要求に反対した江戸家老、前野助左衛門、石崎若狭の両名は、この後、將監、帯刀父子に深く恨まれる。これを端に生じた両者間の抗争は、後の生駒家改易の因ともなったのである。
この組は、多くの讃岐武士を含んでいる。例えば、尾池氏、河田氏、佐藤氏、吉田氏、加藤氏、大山氏、今瀧氏等。その為か、家中騒動では、石崎若狭組と対をなすかのように、その進退を鮮明に打ち出している。立退者がいないのが、この組の特徴である。
佐藤久兵衞は、生駒將監の子。
森出雲組
生駒氏一門衆を除き、家臣筆頭の知行(3948石)を誇る森出雲が預かる組。与力は、生駒氏の縁者、大塚采女(500石)が勤める。侍数21人。
旗下侍20人の平均知行高は、267石。
屋敷の割当は、郭内屋敷六軒、西浜屋敷七軒。
森氏は生駒家譜代筆頭の家老であるが、生駒氏一門衆の家老、生駒將監、帯刀父子と対立し、生駒家を立ち退いた。出雲の父は出羽。妻は前野助左衛門(伊豆)の娘。よって、出雲は、前野次太夫とは義兄弟になる(阿波藩士、前野氏系図参照)。
この組には、讃岐守護代、香川氏の筆頭家老を勤めた河田氏の嫡流である河田八郎左衛門がいる。尚、八郎左衛門は、家中騒動に際して、生駒家を立ち退いた。他にも、高屋、林田、福家氏等、いま一人の讃岐守護代香西氏の家臣たちが含まれている。所属の家臣団は、生駒氏一門衆旗下の大番組と違い、同一氏族に集中していない。
上坂勘解由組
西讃岐の豊田郡にて2170石の一括知行を行う上坂勘解由の預かる組。その知行形態は、生駒家中に於いて、類例を見ない稀有なものである。与力は、村田喜右衛門(361石)が勤める。侍数、26人。
屋敷の割当は、郭内屋敷六軒、西浜屋敷十二軒。
旗下侍25人の平均知行高は、252石。
勘解由は、寛永四年には、三野四郎左衛門と並び、5000石を給されていた。
上坂氏の母国近江は、織豊政権下で数多くの武将を生んだことで有名である。生駒家家臣団中にも、石崎氏、田中氏等、同郷の侍が多数いる。
勘解由は、遠く息長(おきなが)氏の系譜を引く湖北の名門、上坂氏一族の出身である。氏の持城の一つであった今浜城は、後に、秀吉が長浜城と改名、居城とした。
家中騒動に際しては、朋輩の石崎、前野の両家老を庇い、譜代筆頭の家老、森出雲と共に生駒家を立ち退いた。上坂氏の娘は、前野次太夫の室である。
上坂氏一門は、西讃岐の観音寺では、太閤与力の侍として知られている。隣国阿波の蜂須賀家同様、生駒家も、秀吉公から与力侍を付されていたのであった。居城は観音寺殿町の高丸城(観音寺古絵図、教西物語、阿波大西系図等参照)。墓所は観音寺琴弾公園内にある(観音寺十王堂跡地、現琴弾八幡宮境内)。
この組は侍数26名を数え、生駒隼人組と共に最大の侍数を誇る。亦、拝領の家中屋敷も十八軒を持つ。
家臣団構成は、森出雲組同様、特定の氏族に集中していない。
観音寺古図
観音寺古図
石崎若狭組
江戸家老を勤めた石崎若狭が預かる組。与力は下石権左衛門(500石)である。侍数19人。
旗下侍18人の平均知行高は278石で、大番組中、最も高い。
屋敷の割当は、郭内屋敷八軒、西浜屋敷七軒。
この組では、家中騒動の際、その殆どの侍が、組頭で家老の石崎若狭と行を共にした。
中村氏が三人、田中氏が二人いる。
石崎若狭は、寛永四年には既に2500石を給されており、当時1000石の前野伊豆(助左衛門)とは、家中での立場を若干異にしていたようである。屋敷は、大手左の堀端にある。
元和六年に断絶した田中吉政の家中からは、随分と沢山の侍が生駒家に移ったとのことである。若狭もその一人であろうか。
前野助左衛門組
石崎若狭と共に江戸家老を勤めた前野助左衛門が率いる組。与力は、四宮三郎右衛門(350石)である。侍数は20人。
屋敷の割当は、郭内屋敷四軒、西浜屋敷六軒。
旗下侍19人の平均知行高は、272石。
前野の男子の内、一人は、阿波蜂須賀家に仕える。
生駒記等の講談物の域を出ない書冊に於ては、前野助左衛門、石崎若狭両名は、悪役を振り当てられている。だが実際のところは如何であろう。例えば、大番組を預かる高禄の侍は九人いるが、その内、前野唯一人が分散知行に徹している。そこに彼が目差した地方知行制から切米知行制への萌芽を見るのは早計だろうか。
前野の妹は、生駒家奉行、小野木十左衛門の室。生駒記では小野木は足軽出身とのことであるが、決してそうではない。彼も亦、前野と同様、豊臣政権下で重責を担った一族の出である。因に、前野の母は、織田家中で勇猛を馳せた佐々成政の妹である。
浅田図書組
知行2500石を有する浅田図書が率いる組。与力は、疋田左馬之助(700石)。侍数は24人である。
屋敷の割当は、郭内屋敷六軒、西浜屋敷十軒。
旗下侍23人の平均知行高は、246石。
奉行を勤めた浅田右京が失脚した為か、図書は家中の枢要な地位を占めていない。
宮部右馬之丞組
知行1998石を有する宮部右馬之丞が率いる組。与力は、佐橋四郎右衛門(400石)。侍数は14人である。
屋敷の割当は、郭内屋敷三軒、西浜屋敷六軒。
旗下侍13人の平均知行高は、232石。
大番組中、最も小さな組。
寛永四年の侍帳に、宮部木工2000石とあるが、右馬之丞の縁者であろうか。
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