2010年10月21日木曜日

合田學著 「生駒家家臣団覚書 母衣組」

十人の高禄(600~2000石)の侍によって編成された組。家中騒動に際しては、八人の侍が生駒家を去った。(残留したのは、三野・多賀の二人のみ。)
高松城下での屋敷の割当は、郭内五人、西浜四人、その他一人。
組総知行高は9420石。
この組では、三野孫之丞のみが、700石の新田開発を行ったが、この数値は、特筆に値する。
三野孫之丞は、三野四郎左衛門の嫡子。高2000石。
上坂丹波は、上坂勘解由の嫡子。高1000石。
多賀源介の室は、生駒將監と山里の間に生まれた女子。高1000石。

合田學著 「生駒家家臣団覚書 寄合組」 

「寄合組」を「組はずれ」と記す写本侍帳も存在する。
非常時に、生駒河内、前田刑部、入谷助之進の指揮の下、諸士の子弟にて、大番組を編成する。
生駒河内の母は、二代一正公の娘、山里。
前田刑部の出自は定かでないが、寛永10年の人事関係を記した生駒高俊発給文書に扶持方80人扶持との記載がある。
入谷助之進は、生駒氏親族、入谷氏の総領。父は外記。一族の知行は3995石、内、395石は自分開の新田である。
1000石以上の士で自分開の新田を持つものは、生駒河内、入谷助之進、三野孫之丞の三人のみ。

追悼 生駒甚介(生駒甚助)正信公









四国八十八箇所札所、大窪寺傍の多和菅谷に、生駒甚介(生駒甚助)正信公を祀った小祠がある。著者は、何度もお参りに訪れたが、今日も公に逢い見えることが適った。非命に倒れた公のことは、常に我が脳裏にある。写真と地図を添え、此処に、公の顕彰を行いたく思う。
合掌。

合田學著 「生駒家家臣団覚書 侍帳の見方について」

嘗て、生駒家家臣の末裔の家では、必ずと言って良いほど、父祖に関わる言い伝えが残っていた。然し、旧来の研究者たちは、生駒家分限帳(生駒家家臣分限ノ記、生駒家組分侍帳、生駒家給人帳等々)に氏名の記載が無い場合、その伝聞を取り上げないことが多かった。為に、数多くの貴重な伝承が失われてしまった。残念なことである。
この間の生駒藩政史料公開作業の中で、そうした伝承が伝える侍名を多数確認した。一例として 、加藤氏のケ-スを紹介する。既刊の侍帳では、加藤二郎右衛門(三百石)としか記されていなかった為、城下絵図に、加藤五左衛門と、大身の侍たちの屋敷区画(高松城内堀端)に名が記載されているにも拘らず、史家は、加藤五左衛門を考察の対象外とした。ところが、讃州御国中村切高惣帳の明地高で算出すると、彼は、少なくとも千三百三十七石以上の侍として存在していたことが確認される。
亦、侍帳には、当然、生駒家直臣の名前しか記載されていないことを銘記すべきである。例え、高録を食んでいても、陪臣であれば、その名は記載されない。そして、その例は多数ある。
今ひとつ、鷹匠衆についても、諸大兄の注意を喚起しておきたい。古来、鷹狩りは、軍事演習であり、兵用地誌作成の為のものであった。その鷹匠衆に、香川、香西の名があるといえば、諸兄は何とお考えか。この辺りから、今一度、生駒家の讃岐武士に対する処遇を考えてみようではないか。

参考
合田學著 「生駒時代高松城侍屋敷図(郭内篇)」http://kousakashikenshoukai.blogspot.com/2010/05/blog-post.html