2012年9月10日月曜日

三野郡大野村

生駒氏統治下の三野郡大野村について、記してみたい。
何故、大野村かというと、他意は無い。私は、うどん好きなのである。そして、私が尤も好むうどん屋さん(ぷりうまうどんふる里)が、此処、大野の地にある。何度も訪ねる内に、ご店主と歴史談義となり、此れを機に、大野村に関する史料をご紹介してみたくなったのである。
西嶋八兵衞、小野木十左衛門、市原惣左衛門の手になる「讃州御国中村切高惣帳」に依れば、当時の大野村の総石高は、114422升であった。そして、当時の村内には、都合六人の生駒家給人の知行所が設定されていた詳細は、以下の通りである。

  野田長兵衞(生駒將監組・西浜屋敷・82400石)        3904
   (この内、100石が、野田氏自ら開いた新田である)
  伊吹安左衛門(生駒左門組・郭内屋敷・51500石)  280
   下石権左衛門(石崎若狭組・郭内屋敷・51500石)     1452
   高井半十郎(生駒隼人組・西浜屋敷・127 300石)      1452
   井上与右衛門(鉄砲組・郭内屋敷・39600石)       8662
   加藤加左衛門(明知行・78445石)                    968
   〔付記〕括弧内に、役職、高松城下屋敷、高順、総知行高を記した。

当時の生駒家給人は、高松城下のみならず、己が知行所にも屋敷を有していた。上記六人の給人中、野田、伊吹、高井の三人は、その知行の過半を大野村で有しており、此処に、屋敷があったものと推察される。 
彼らの屋敷地の跡を是非とも確認したいが、その方途として、小字名で、屋敷、土居といった名称が残っているかどうか探る、或いは、域内の高台を想定し散策してみるといったことが考えられる。亦、野田長兵衞の行った百石の新田開き、此れも注目に値する。中レベルの田としても、八町を越える規模の開発である。何らかの伝承が土地にあるのではなかろうか。ここから、野田氏の給地を垣間見ることが可能かもしれない。
今ひとつ気付くことは、下石権左衛門と高井半十郎の給地が同じ数値であることだ。高井氏は、大野村を本貫地とした国人領主層の出身であるから、この土地を半裁し、他国出の下石氏に与えたのであろう。
合掌。





合田學著「讃州御国中村切高惣帳表計算篇(2001年7月28日第三版刊)より、三野郡大野村を抽出、アップロードする。 






合田學著「生駒家家臣分限ノ記 表計算篇(2000年11月18日第二版刊)」より、当該給人を抽出、アップロードする。