何故、大野村かというと、他意は無い。私は、うどん好きなのである。そして、私が尤も好むうどん屋さん(ぷりうまうどんふる里)が、此処、大野の地にある。何度も訪ねる内に、ご店主と歴史談義となり、此れを機に、大野村に関する史料をご紹介してみたくなったのである。
西嶋八兵衞、小野木十左衛門、市原惣左衛門の手になる「讃州御国中村切高惣帳」に依れば、当時の大野村の総石高は、1144石2斗2升であった。そして、当時の村内には、都合六人の生駒家給人の知行所が設定されていた。詳細は、以下の通りである。
野田長兵衞(生駒將監組・西浜屋敷・82・400石) 390石
4斗
(この内、100石が、野田氏自ら開いた新田である)
(この内、100石が、野田氏自ら開いた新田である)
伊吹安左衛門(生駒左門組・郭内屋敷・51・500石) 280石
下石権左衛門(石崎若狭組・郭内屋敷・51・500石) 145石 2斗
高井半十郎(生駒隼人組・西浜屋敷・127
・300石) 145石 2斗
井上与右衛門(鉄砲組・郭内屋敷・39・600石) 86石
6斗 2升
加藤加左衛門(明知行・78・445石) 96石 8斗
〔付記〕括弧内に、役職、高松城下屋敷、高順、総知行高を記した。
当時の生駒家給人は、高松城下のみならず、己が知行所にも屋敷を有していた。上記六人の給人中、野田、伊吹、高井の三人は、その知行の過半を大野村で有しており、此処に、屋敷があったものと推察される。
彼らの屋敷地の跡を是非とも確認したいが、その方途として、小字名で、屋敷、土居といった名称が残っているかどうか探る、或いは、域内の高台を想定し散策してみるといったことが考えられる。亦、野田長兵衞の行った百石の新田開き、此れも注目に値する。中レベルの田としても、八町を越える規模の開発である。何らかの伝承が土地にあるのではなかろうか。ここから、野田氏の給地を垣間見ることが可能かもしれない。
今ひとつ気付くことは、下石権左衛門と高井半十郎の給地が同じ数値であることだ。高井氏は、大野村を本貫地とした国人領主層の出身であるから、この土地を半裁し、他国出の下石氏に与えたのであろう。
合掌。
今ひとつ気付くことは、下石権左衛門と高井半十郎の給地が同じ数値であることだ。高井氏は、大野村を本貫地とした国人領主層の出身であるから、この土地を半裁し、他国出の下石氏に与えたのであろう。
合掌。
合田學著「讃州御国中村切高惣帳表計算篇(2001年7月28日第三版刊)より、三野郡大野村を抽出、アップロードする。
合田學著「生駒家家臣分限ノ記 表計算篇(2000年11月18日第二版刊)」より、当該給人を抽出、アップロードする。
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。